私が写真を撮りだしたのは、1999年くらいだったと思う。
最初はカメラを持っている人がカッコイイという安易な理由だった。
その当時、実家にあったカメラはコンパクトフィルムカメラのKonica BiGminiと、PENTAXのMXというフィルム一眼レフだった。
カメラを買うお金もないので、その二つが私の初めてのカメラだった。
うちの親はガジェット好きだったので、多分、その少し後にはデジカメもあったと記憶しているが、まだまだ画質もフィルムには及ばなかったので、フィルムを結構長い期間使っていた。
1999年、私は19才だった。
撮るものといえば、友達や身近などうでもいい風景だった。
今、私は43才だが、撮るものといえば家族や身近などうでもいい風景だ。
私は19才の時から写真を撮り続けているが、別に上達もしていないし、撮るものも変わらない。
なんで撮り続けているのか自分でもずっと謎だ。
まだSNSも無い時代から撮っているので、SNS以降の撮った写真を人とシェアするという感覚も少ない。
もしかしたら、SNSにシェアすることから写真を始めた人たちとは感覚も少し違うのかもしれない。
そもそも、当時周りで写真を撮っている人は、プロかアマチュアのおじさんたちや、ガジェット好きのおじさんたちがほぼだった。
時々カメラ屋やイベントなどで、そういう人たちと話すと、写真についての説教みたいなものを聞かされたりして、全然馴染めなかった。
持っているカメラを生意気だと言われて絡まれたこともあった。
そういうことを言われても、何も言い返せなかったし、実際私は上手くもなければやる気も彼らとは全然違っていた。
そんなこともあったりしたが、とにかく私は写真を撮り続けていた。
そして、いつも悩んでいた。
時々、カメラを全部売ってしまおうかと思う時があった。
19才から撮り続けていると、フィルムもデータもどんどん溜まっていく。
たわいもないものを撮り続けているので、それらを見ていると時々不安になるのだ。
先日、チームラボの猪子さんが「レンズで世界を見るようになってから、身体性を失ってしまった」みたいなことを話していて、もう、それを聞いた時には「よし、カメラを明日にでも売ろう、売るしかない。」となったのだった。
過去に何度も「明日にはやめよう」と思った。
それでも、私は結局カメラを手にしてしまい、シャッターを押してしまう。
一応撮っている意義を見出すべく、インスタなどにも載せてみたりもしたが、どうも相性が悪くて全然更新しないし、写真が上手くなれば良いのではないかと考えて、写真家のワークショップやSNS以降の写真好きの人たちの話や動画などを見て勉強もしたのだが、時々理解ができなくて、結局今まで通りなのである。
それで、ずっとこれは一体なんなのだろうと考えていたのだが、今日ある動画を観て少しだけ理解できたのだ。
その動画は、アメリカの写真家の人がインタビューを受けているものだった。
その写真家はフィルムで写真を撮り続けていて、一日10本近く撮っているという。
撮る場所は、いつも必ず同じ橋で、そこで起きたことや物を撮っている。
しかし、問題が一つあって、最近フィルムがめちゃくちゃ高くなったことでなかなか現像することができず、彼が自分の撮った写真を最後に見たのは2020年だというのだ。
なので、現像していないフィルムが冷蔵庫いっぱいになっているらしい。
それでも撮り続けているのだ。
その話を聞いた時、私は全然彼のように毎日たくさん写真を撮ってはいないし、上手くも全然ないのだけれど、何か少し私が写真を撮り続けてしまう理由の一部が見えたような気がしたんだ。
もはや、人生の一部なんだと思う。
これは、やめようとしても無理なのだと思う。
死ぬまで続けるのかもしれない。
そう思ったら、少し心が軽くなったような気がした。